市川雛菜の幻覚を見て市川雛菜という概念を理解した話。


本稿は題の通り、アイドルマスターシャイニーカラーズ(シャニマス)のキャラクター、市川雛菜の幻覚を記憶の中のとある同級生に見出して市川雛菜という概念を理解したオタクの話である。

 

 

市川雛菜とは?

市川雛菜はシャニマスのノクチルというユニット所属のアイドルである。このノクチルというユニットは幼馴染4人で構成されているアイマスでも珍しいユニットである。その中で一応最年少である。公式プロフィールでは

自分の「しあわせ」に向かって突き進む、奔放な女の子。

幼馴染みで先輩の透を慕っている。高校1年生。

 

 

とある。

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市川 雛菜 (いちかわ ひなな) | アイドルマスター シャイニーカラーズ(シャニマス)

このノクチルというユニットはそれぞれのキャラクターが今までのアイマスシリーズのアイドルとはまた違った趣のキャラクターであり、雛菜もその例に漏れずクセが強いキャラである。どのように違うのか興味がある方は是非プレイしていただきたい。

雛菜はプロフィールにもあるように、”自分の「しあわせ」に向かって突き進”んでいるアイドルだ。象徴的な話として、雛菜以外のノクチルのメンバー3人がレッスン後に自主練をする中、雛菜ひとりだけが自主練をせず事務所でプロデューサーを待ち、プロデューサーと話をするコミュ(エピソード)がある。*1その次のコミュでプロデューサーに何故残って自主練をしなかったのか尋ねられると、「でも、みんなはそうしてほしいかな? 雛菜、透先輩でも円香先輩でも小糸ちゃんでも無いし知らないけど~~ 決まったレッスン時間はちゃんとやってるよ? みんなと仲良しだよ~? 楽しくなくても無理して頑張ってやりなさい~ってこと~? 辛くて大変じゃないと、頑張ったことにはならないの~?」と答えた。*2

僕にはこの雛菜の応答が理解出来なかった。多少我慢してでも周囲に合わせた方が無駄な軋轢を生まずに無難に過ごせると思って生きてきたため、このような輪を乱す発言(とプレイ当時は感じていた)はとても自己中心的に見えた。雛菜のこの考え方に初プロデュース時からどこか不気味さと不思議さを感じ、そして既視感を抱いていた。それが同級生の女子(以下彼女と表記)に抱いていた感情とも知らずに。

 

雛菜に似た同級生の女子の話

 

雛菜に似ている彼女の話をしよう。彼女は所謂陽キャであり、まあスクールカーストの上位の存在だった。校則違反のネイルや化粧もたまにしてくるような性格であり、当然違反で担任にキレられたりもしていた。どこかのグループに居たわけでもなく、他クラスの同じような女子とつるんでいた。だからといってクラスで孤立していたわけでもなく、社交的であった。たぶんイマドキのギャルである。2年間同じクラスであったことや、出席番号が近かったり近くの席になることが多かった影響もあると思うがクラスメイトの中では割と僕と話した人の部類に入ると思う。当時放送されていた鬼滅の話もした記憶がある。カテゴライズするならば、オタクにやさしい陽キャ、多分に主観が入るが、オタクくんにやさしいギャルである。そう、オタクにやさしいギャルは存在するのである。

当然オタクくんはギャルの心がわからぬ、彼女に対して何か得体の知れない恐怖感と若干の嫌悪感を感じていた。

彼女は自己中心的というほどではないが自分のしたいことを優先し好きなように生きていた。ネイルや化粧をしての登校や遅刻もそうだが特に勉学に励むわけでもなく、文化祭や体育祭に積極的に関わるわけでもなく、ほぼ最低限くらい関わって自分のやりたいようにやっていた。打ち上げとかにもいた記憶も様子もない。(当然打ち上げには僕もいない、なぜ知ってるかというと数年ぶりにクラスLINEのアルバムを確認したからだ。無論この記事のためである。)たぶん学外で何かやっていたのだろう。知らんけど。当時はカーストが上でクラスに友達もいるのになぜ周りと協調しないのか、不思議だな~とか教室の隅で思っていたと思う。陰キャオタクのお前が言うな。

そんな中、彼女に市川雛菜の幻覚を見る決定的な出来事が起きる。当時はそんなこと思ってもなく、ただ衝撃的な出来事だと思っていただけだったが。

 

(幻覚を後に見出す)エピソード

 

高3の秋口だったと思う。授業中なのか、授業前なのか、それすらも定かではない時間に確か英単語だか英熟語の単語帳を眺めながら授業を聞き流す体制に入っていた。僕も彼女も英語の成績が悪く、補修的なものに駆り出されていた。そのこともあってか受験や志望校の話になって第一志望厳しいわーみたいな話をしていたはずだ。

「大学なんていっぱいあるよ、どこでもいいじゃん」

確かな文言は覚えてないが、そういう趣旨のことを確かに言った。大学受験全否定である。それを聞いて確か僕は少し気が楽になると同時に拍子抜けしてしまった。そんくらいのメンタルで生きたいと思う反面、じゃあなんでこんな苦行(実際僕にとっては受験勉強は苦行でしかなかった。)をしているのか、と思ったのだ。そして彼女の将来の心配だ。お節介極まりないが、そんな考えで将来やっていけるのか、と思ったのを覚えている。その後なにを言ったのか確かなことは覚えてないが、確か相槌を打って終わったのだと思う。学歴がなくてこの先どうやって生きてくんだ、という思いがあったがそんなことを問いただす勇気もないわけで、そのまま適当に流した気がする。その時彼女には(僕が高3生時に特有の受験への焦りと学歴至上主義の影響もあったと思うが)少しの嫌悪感と理解不能な気味悪さを感じた。

そのような断片的な記憶しかないが、ただ、空いている窓から吹いてくる風を受けながら授業を受けていた記憶と、大学なんていっぱいあるよ、どこでもいいじゃん、と心底受験なんてどうでもいいというような言葉が耳にこびりついて未だに離れないでいる。

その後、彼女に恋心を抱くことも、親密になるようなイベントもなく時は過ぎ僕も彼女も卒業した。僕は大学生になった。彼女の進路は覚えていない、というより聞いていない、と言う方が正しいだろう。丁度コロナ禍で卒業式前後がぐちゃぐちゃになって結局聞かれず終いだったのもあるが、元来そこまで親しいわけではなかったのだ。彼女は陽キャであり僕は3年間ぼっち飯をキメていた陰キャ、である。2年間クラスが同じだったわけだがそれ以上でもそれ以下でもない。

そんな高校時代のエピソードである。この話が後々幻覚を生むことになる。

 

市川雛菜=彼女、という等式と概念の理解

 

 

彼女と市川雛菜に対して同じ感情を抱いていたのに気づいたのはつい最近だ。無論、当時(2019年の秋頃?)は市川雛菜なんてキャラクターはこの世に存在しなかったわけで、その後の気づきが起きるまで上記のエピソードなんて記憶の片隅に追いやられていた。

市川雛菜をプロデュースした当初同じような感情を覚えた時も、このエピソードを思い出すことはなかった。しかし気づきは唐突にやってくる。

ある日、雛菜に対する若干の嫌悪感と恐怖感、理解不能であるという感情が、彼女に対して抱いていた感情と全く同じだということに気づいてしまった。切っ掛けは特にない。雛菜について考えていた時にふっと上記のエピソードを思い出し、なんか雛菜っぽいな、彼女、と思っただけなのだ。ひょっとして雛菜は彼女のように自分のしたいことをしているだけではないのか?と仮定してみた。すると雛菜が身近に感じられるとともに彼女と雛菜の共通点がどんどん浮かび上がってくる。無論相違点もある。しかし彼女と雛菜というキャラクターを比較することで自身の実体験から、市川雛菜というキャラを理解し始めたのである。

雛菜は、本当に文字通り、”自分の「しあわせ」に向かって突き進”んでいるのだ。雛菜にとっては「しあわせ」かどうかこそが重要であり、それ以外は重要でないのだ。彼女が彼女自身がやりたいことをやる、ということを重要視して生きているように。初めてプロデュースしたときには雛菜の「しあわせ」が理解できなかった。それが雛菜なりの、彼女なりの、行動を定める重要な要素なのであるということが。

思い返せば、常に彼女は自分がしたいように生きていたと思う。僕は彼女を深く知らない。彼女がどういう風に生きようと思っているかも、なにを基準にしているのかも。だが確かなのは市川雛菜も彼女も、自身の信念、哲学に基づいて生きていたのだ。信念や哲学というと大袈裟かもしれない。意志、くらいのものかもしれない。雛菜は自分が「しあわせ」であるかどうか、という価値判断に基づき、そして彼女は彼女の意志に基づいて、人に流されず、自身で決断していたのだ。

何も考えていないわけではない。刹那主義でもない。雛菜は、そして彼女は、自身の意志を最も尊重し、そこに基づいた判断をして生きているのだ。僕は雛菜を、彼女をそう定義した。そして彼女が雛菜を理解する重要な手がかりになるかもしれない。そう思って試しに脳内の記憶を雛菜で再生してみる、違和感がない。僕の脳内に彼女=雛菜、の等式が出来上がる。彼女は雛菜であり、雛菜は彼女である。雛菜を彼女だと思うことにより今まで理解できなかった雛菜の言動が更に理解出来てくる。彼女と彼女にまつわる記憶のおかげで雛菜に対する解釈と市川雛菜という存在に対する理解が深まったのだ。

幻覚を見る

 

しかしここで思わぬ事態が起こる。記憶を雛菜で再生したことにより、記憶自体が曖昧であることも相まって幻覚が見え始める。市川雛菜が同級生で、隣の席にいた、という幻覚が。

無論ただのオタクの妄想であり幻覚である。そんな事実はない。彼女が市川雛菜に似た言動をした。ただそれだけだ。記憶の歪曲と美化でしかない。しかし、しかしだ、それでもあの日、あの教室、あの風が吹いた瞬間、彼女は間違いなく市川雛菜であったのである。そう信じてしまうのだ。

幻覚だとわかってはいる。だが自身のクソみたいな高校生活におけるひとつの思い出であり、市川雛菜というキャラクターを僕が理解する上での重要な要素であるため、思い出すたびにどうしても雛菜で脳内再生されてしまうのである。そして何より、彼女=雛菜、という等式を打ち立てたため、彼女のことを思い出してる間にも雛菜の影がちらつくようになったのだ。逆に言えば雛菜のことを考えていても彼女のことが脳裏にちらつくのである。

ここまでくると強めの幻覚を通り越し、もはや彼女が市川雛菜であったことが真実であったような気がしてくるのだ。幻覚に思い出が侵食されてまるで雛菜が僕のクラスに居たような錯覚を覚えてしまう。ただでさえ殆どの高校の記憶を忘却の彼方に置いてきたわけで、記憶に残ってる思い出、更には彼女に関する数個の思い出がどんどん雛菜との思い出に置き換わってしまう。何が何だかよくわからないが、本当に雛菜が同級生で、大学なんてどこでもいいよ、と僕に言い放ち、スカート丈が短いと担任にキレられ、ネイルが担任にバレて呼び出しをくらい、英語の補修もどきを同じ教室で受け、授業中に鬼滅の話をしていたような、そんな気がしてくるのだ。つまり存在しない記憶の発生である。

無論そんな記憶は幻覚である。当たり前である。ただの僕の気持ち悪い妄想であり妄言である。だが彼女は間違いなく市川雛菜のような一面を持っていたし、繰り返すようだがことあの瞬間においては、市川雛菜そのものと言ってもいいような存在だった。そして僕はそこに市川雛菜を見出した。それだけは紛れもない事実なのである。

そんな自身の高校生活のひとつの思い出と、それに関連する大学生になった僕のどうでもいい妄想の話である。

 

つまり何が言いたいかっていうと、市川雛菜の幻覚を見たことと、オタクにやさしいギャルは存在するってことです。

 

以上!!!!!!!!!!!!!!!!!

*1:共通コミュ Bitter×coffee より

*2:共通コミュ (unknown) より