はじめて三大セカイ系を鑑賞してみて

 

こんにちは。02年生まれの10年代を生きてきたオタクのみやまれおな(@miyama_kusozako)です。

今回の記事は初めて三大セカイ系セカイ系に触れた10年代のオタクの僕がつらつらと感想とか思ったことを書き連ねる記事です。

作品批評とか小難しいことが出来ないのでただつらつらと読んで感じたことや思ったことを書き連ねていきたいと思います。

 

なぜ21年に「三大セカイ系」を?

まあ一言でいえば「セカイ系」に興味があったからです。

2002年生まれなのでいわゆるゼロ年代的なものやセカイ系というものに触れずに育ちました。アニメを見だしたのも中3くらいの時期ですしネット文化にふれたのも高校に入ってからという結構後発組なのです。

それでまあかくかくしかじかあって何故かゼロ年代作品やセカイ系作品というものに興味を持ち心惹かれて代表作である最終兵器彼女はじめ三大セカイ系と呼ばれるものを買い求め読んだわけです。(ここのかくかくしかじかはそのうちにでも書こうかなと思っています)

ゼロ年代セカイ系に興味がある、とはいってもそういった評論とかも読んだことはなく作品もあまり見たことがなくただなぜ流行り、なぜ廃れたのか、とか(記憶がないけども)平成という自身が生きていた時代の文化を知りたいなーなどと漠然と思っているだけなのでまだ何も知らないんですよね。そういう批評とか評論とかの文法や方法を覚えたらもう一回評論してみたいなーなどと思っています。前置きはこれくらいでまずはそれぞれの作品の感想を。

感想その1(最終兵器彼女

ほんとうに唐突に訪れる戦争とちせの最終兵器化からはじまる非日常と過酷な現実、少し残っていた平穏な日常もだんだんと非日常へと変化していく。徐々に日常が非日常へと変化していきそれと同時進行するかのようにちせが兵器として徐々に心を失っていく過程を見せられ、シュウジがそれを知らない一方我々読者は神の視点でちせとシュウジの両者や自衛官の心情を理解することが出来、すれ違いやお互いへの想いを理解しているのに伝えられないもどかしさを持つ。それがまた一層切なさや胸の締め付けられるような思いを生む。シュウジ側の日常も壊れていき残酷な非日常へと変わっていく。時折挟まれるギャグというかほのぼのパートになごませられるがまた非情で過酷な現実をつきつけて非日常な世界へと放り出される。切なくも美しいラブストーリーだな、と思いました。ちせの感情の喪失=最終兵器化がすごい切なくて、ちせ自身も自覚してるしどうにもならないものではあるがそれをシュウジに悟られないようにしたり自衛官への心遣いをしたりと、そういうけなげな面が逆に切なく感じてしまいました。

あと交換日記っていいですね、日常の象徴というか、平穏でなければできないものですもんね、本格的な戦争状態になった後半はあんまり出番なかったんですがやっぱ携帯電話がなかったというか、普及してなかったあの時代はああいうのがメインだったんでしょうか、

あと恋愛至上主義というのか、恋愛というものを美化しているのか、シュウジとふゆみの肉体関係をも美しく描くのには少し意外というか、まあちせと付き合ってるわけじゃないからシュウジは浮気とは言えないがこれふゆみ先生がっつり不倫ですよね、美しく、描いていいんか?まあ戦時下っていう緊急事態だからなのか、シュウジ側の思春期の揺れる心を描きたかったのかな、とか考えちゃって少し消化不良というかモヤモヤが残りました。ここは各人の倫理観とかによってまた違う感想が出てきそうなポイントですね。

実は「実を言うと~はもうだめです。突然こんなこと言ってごめんね」のコピペがこの作品発なのも初めて知って、この手紙が出てくるけっこういい場面でコピペのことが頭にちらついて少し笑ってしまいました。

 あとポケベル、というものを知らない世代なので、(物心ついたときにはもう折り畳みやスライド式ガラケーが主流)いまちポケベルというものの重要性というか用途みたいなものが理解できなくて出てくるたびに少し没入感が削がれてしまいました。まあこれは世代というか時代的なものでしょうがないものではあるとは思いますが、たぶん自分が使ってるスマホと当時のポケベルは使用意図やそれを取り巻く通信環境は2021年とは全く違っていたと思うのでリアルタイムやそれに近い時代に触れていた人に話を聞いてみたいなとは思いました。

 

感想その2(ほしのこえ

ひとことで言えば純愛、純愛を真っ向から描いた作品だと感じました。登場人物が二人のみでまさしく「キミとボクのセカイ」ですごい純度の高いセカイ系だな、という感想でした。

美しい景色にSF的な世界を合わせて心を揺さぶるセリフを出してくる新海要素の強い作品だな、とも思いました。新海作品なのにらしさなくてどうする、って話ですが。後半の精神世界のようなところでのミカコの対話的なシーンがエヴァっぽいな、とも感じましたがどうなんでしょうかね、なんかよくわからない、というのが正直な感想です。

ニセコイTo LOVEるなどのハーレム系、複数ヒロインが出てくるのが当然のマンガやアニメや物語で育ってきた世代というか人間なので登場人物が二人だけのあまりにも純度の高い純愛のストーリーを見るのは恐らく初めてで、その美しさと儚さに強い衝撃を受けました。一人の人間をひたすらに愛す少女と時間と空間を隔てているために揺れる心を持つ少年。失礼な物言いではあるが風景もストーリーも美しい中で新海誠のお世辞にもうまいとはいえない演技が醜さというか、現実離れした設定と美しい物語にオタクの自分語りのような要素を持たせ、ただの美しい物語ではなくなっているところが非常に好きな部分です。

ヒロインが戦い男(主人公)が無力であるという設定は三作品に共通な構造で主人公に敢えて特殊性を持たせないことで視聴者側に主人公への共感や没入感を促すための一種の舞台装置的な役割があるのかな、などと感じました。

この作品も恋愛至上主義というか恋愛とそれに関連する思春期について描いた作品であり、 メールというものが離れたふたりをつなぐ鍵となって物語が展開していき文字通り時空と時間を飛び越えてやりとりをするわけで、そのやりとりの間の揺れるノボルの心がすごい思春期的で好きです。

少し話が本筋からずれる感がありますが新海作品の秒速5センチメートルほしのこえ、君の名は、でメール(携帯電話)は重要な因子となっており、ほしのこえや秒速ではもちろん交流のツールとして、君の名はではメールではないが三葉と瀧の交流のツールとして、そして時間を超えた入れ替わりに気づくという重要な役割を持っている。メール(携帯電話)というものは日常を表す小道具であり世代的な象徴的なものと新海誠は見ているのか、それとも世代的に我々がスマホをありふれた日常に溶け込んだアイテムであると感じるようにメールを見ているのか、ということが気になりました。

個人的には携帯電話、というかスマートフォンを持ったのが中学卒業と同時であり、その頃は当然LINEで連絡、電話なんてめったにしないし携帯(スマホ)は何でもできる魔法の箱、というような認識で、友人との連絡なんてLINE、Twitterのリプ、DM、InstagramのDM等々連絡手段が無数にあるような状態がデフォルトであったので連絡手段が電話とメールだけであるというような状態が想像しかできないので他人が「ケータイ」や「メール」に抱く認識がよくわからない、というのが正直な想いであり、「君の名は」ではスマホだったのでなんとなく共感というか理解はできましたが他の作品だとどうもケータイを使ったことがない人間なのでピンとこないという感じでこれもまたポケベル同様リアルタイムで使っていた人間に話を聞いてみたいなという感想を持ちました。 

 

感想その3(イリヤの空、UFOの夏

三作品の中で一番10年代っぽいというか、共感できるような作品でした。ラノベ自体の作風が今と変わらないというか、文字媒体であるのと学園がテーマであるのとあまりケータイやポケベルなどの時代や世代の違いを感じるような小道具がなくあまり古臭さを感じないような作品だなーと思いました。学園モノでも実際の学校生活でも学校に行けば会えるわけだし一日の半分以上を学校で過ごし騒動というじゃイベントが起こるのもほとんどが学校であり、あまりケータイなどの出番はないため割とすんなり受け入れられたのかもしれないです。一応公衆電話もテレカも使ったことがあるので(他の同世代の人はどうだかわからないが少なくとも自分は使ったし今もたまに使う。)ところどころ細かいことは気になりましたが違和感なく物語に入りこめました。

超雑に言えば変な転校生が実は世界を救うために戦ってました!みたいな話の流れですが2巻と半分くらい使って学校での日常をコメディタッチと恋愛模様と青春を交えつつ描いていたので衝撃というかそこからの怒涛の展開があまりにも前半とかけ離れていて息もつかせぬ怒涛の展開でジェットコースターに乗ってるような気分でした。文化祭でのUFOとのダンスがロマンチックだったりその後の大食い対決とかまでただのダブルヒロインブコメかと思うほどドタバタしてたのでそこからの落差で衝撃を受けました。

日常の裏でひそかに進む非日常、非日常が日常に取って代わったころにはすべて取り返しのつかない状態で、現実からの逃走、しかし逃亡の先には理想郷ではなく現実がまっている。という形で話が進んでいき、最終兵器彼女のように神の視点はなく、伊里野以外の登場人物の視点で物語が進行し途中で伊里野が「壊れた」ところで伊里野側の記憶を伊里野自身が語り浅羽視点で読者が理解し、すべてが終わった後に簡潔な説明をうけて終わる、というのが物語であるのにまるで現実のように伊里野のことが理解できず最後になってなんとなくわかった気になる、というところが更に無力感を加速させるような虚無感を受けました。

エピローグで世界の平和=伊里野の消滅を描くことでどうしようもなく切なくなり感情ぐちゃぐちゃにされて読み終えました。救いがないというか、虚無感しかない読後でした。最後の出撃前の伊里野の「浅羽のためだけに戦って、浅羽のためだけに死ぬ」というセリフが死を覚悟した悲壮感と浅羽への愛があらわれていてすごい切なくてとても好きです。甲乙つけがたいですがたぶん三作品の中でいちばん切なくて、いちばん好きな作品です。

 

 

三大セカイ系を読んでのまとめというか気づき

 三作品を読んで媒体ごとの構造の違いがけっこうあると感じました。偶然なのか必然なのか、三大セカイ系それぞれが小説(ラノベ)、アニメ(映像)、マンガと媒体が違うから結構媒体らしさ、というかノリが違って面白いなーと思いました。(まあ媒体の特性なのか、作者の作風なのかという微妙なところはありますが、)

情報量の多さとして映像>マンガ>小説の順になっているのは周知の事実ですが、情報量が少なくなっていくにつれギャグ要素というかコメディ色が強くなっていくように感じました。

やはり小説であるイリヤの空がいちばんコメディ路線で(大食い対決や水前寺、伊里野と浅羽のデートの尾行など、)ドタバタやコメディ色が強く、情報量が多くなる媒体になるつれてギャグが薄れていき、最終兵器彼女ではときたま挟まれるだけでほしのこえでは一切ありませんでした。確かに最終兵器彼女にもギャグシーンみたいのは挟まれていましたが水前寺や前半の榎本のような存在自体、登場するだけで場がドタバタするようなキャラは他の2作にはいないですし、アニメや漫画という視覚に訴える媒体だからこそ日常や非日常を視覚という最大の情報収集器官に訴えて淡々と描くことが出来て、逆に文章では淡々とストーリーを進めることが難しいからこそキャラクターの性格や存在自体に色をつけざるをえないというかそういう話になっていくのかなと思いました。

少し話がずれますがノベルゲーなどでも破天荒なキャラやギャグやコメディ要素が入っていたり、そもそもがコメディ色の強い作品であったりと、やはり文章主体の作品だとどうしてもそういった要素がなければ面白みに欠けるというか、メリハリがなくなってしまうのかもしれません。

視覚に訴えるマンガにしても数話、数十ページで終わるような短編マンガでなければ読む時間がかかるわけで、途中にギャグを挟みテンポをつくり、一息いれて飽きさせないように工夫が必要なためギャグなども必要になっていきますが逆に長くても3時間長の映像作品では映像という動くものや音楽があり他の媒体よりも情報量が多いため、何を訴えるのか、何を魅せたいのかに焦点をあてて音楽や映像で語るからそこまでギャグ描写いらないしなくても成立するのかなーと

特にほしのこえは短編なので本当に必要というか、描きたいものだけ描いているような感じを受けました。

 

「最終兵器~」と「イリヤの空~」の話の展開が割と似通っていて、日常からの非日常、非日常からの逃走と束の間の平穏(日常)、しかし長くは続かずまた非日常の世界へと戻り終劇へ、と大まかに言えばこのような流れで両作品とも展開されており、特に「逃走」の部分でエヴァオマージュというか、影響を受けているのではないかと感じました。イリヤの空での線路を歩く描写や電車でシンジの逃走シーンを連想してなにか関連性を勝手に感じただけかもしれませんが。

エヴァとも若干構成が似ており、エヴァに恋愛要素を加えた、というのはいささか強引な論のもっていき方ですが思春期的な主人公や登場人物はエヴァに通ずるものがあると感じました。エヴァセカイ系と評されることもありますしやはりどこか似ているというか影響下にあるのかな、と思いました。浅羽通明とか笠井潔とかも同じこと言ってるみたいですね(Wikipediaセカイ系」の項より)

そういった評論的観点からセカイ系を論じることにも興味があるので読んでみようと思いました。

 

純度の高いセカイ系に触れて

率直にいえば、セカイ系ってなんだ?????????と更に謎が深まるだけの結果になりました。

三大セカイ系と呼ばれているのでセカイ系の文法というか、テンプレがあるのかな、と思いきやなく、共通点が恋愛ものである。ヒロインが戦う。男(主人公)が一般人である。ぐらいであり、(最終兵器彼女イリヤの空に構成で類似点はあるにはありますが、)それぞれ三者三葉の作品で確固たるジャンルとは全然言えないじゃないか、と思ってしまいました。そもそもセカイ系という概念の定義自体が曖昧でなんかそれっぽいものぜんぶセカイ系!!としているふわふわした概念であることはなんとなく知っていたしわかっているつもりでしたが日常系よりももっと曖昧だとは思ってなかったです。

気づいた特徴としてはハッピーエンドじゃないのと情報量が少ないですよね。これは三作品だけじゃなくセカイ系に共通だと思うんですが終わり方に関しては悲劇的というか虚無感に包まれるような終わり方というか、読者をすごいセンチメンタルな気分にさせてくれますよね。そういう終わり方にした方が恋愛の美しさを引き出せるからなのか、セカイ系という作品の構造上そうならざるを得ないのか、描きたいことを描くとこうなるのか、なにがこのような作品構造にさせるのかについて気になりました。

情報量が少ない点については具体的な「敵」の描写がなかったり結局なにが起きたのかよくわからないまま物語が終わったり設定がよくわからなかったりとこれもまたセカイ系共通事項の特徴だと思います。最終兵器彼女の作者の高橋しん氏があとがきで「ふたり(シュウジとちせ)は読んでくださり時間を共有したみなさんの、身近な二人」だから名字がない、と言っています。また、「一から十までお膳に据えて、想像力をスポイルするような演出、表現は極力避けています。できるだけみなさんにとっての一番納得できるリアリティーに当てはめて、キャラクター達の感情を素直に受け取っていただけるようにです。」とも言っています。*1こういった親近感やキャラクターとの共感、読者たる我々の現実世界と同じようにすべてがわかるわけではない。というような世界を描くことで得られる共感や感情が魅力のひとつだと思います。

あと月並みな感想ですがやっぱ名作は名作とよばれるだけあって面白いなぁと、セカイ系でクソ作品とかあるんですかね、あるんならどんなかんじなのかちょっと見てみたいですね。

 

 最後に

どうでもいい話ですがこの記事書くのに10時間くらいかかってて、自分の思考を言語化したり文章にするのって難しいな、と感じました。文章然りイラストとか創作然りそういうので表現出来る人すごいな、と思いました。

三作品がすごい面白かったのでとりあえずセカイ系と呼ばれるようなエロゲギャルゲアニメマンガを鑑賞してもっと理解を深めたいな、という気持ちです。余計混乱するかもしれませんが。

あと「動物化するポストモダン」を積んでるのでそういった評論も読まなきゃな、とやりたいことがポンポンと出てきて収拾がつかなそうなのでここらへんで終わらせていただきます。

よければTwitterのDMとかコメントとかいただけるとめちゃくちゃ嬉しいです。

 お読みいただきありがとうございました!

*1:最終兵器彼女七巻あとがきより()内は補完。