「オタク」と名乗れないオタクの話

「オタク」(とされるような趣味を持つ人々の一部)がオタクと名乗らない現象について、書いてみたい。

 

本稿では括弧付きの「オタク」を世間一般で広く使われる、オタクと自称し好きなものに対してポジティブで、好きなものは好きと言い、推しや好きな作品に対して愛を振りまくような人々や概念(①の用法)として使う。平たくいえば「私はオタクです!」と自己紹介で屈託なく言えるタイプの人間のことだ。対する括弧なしのオタクは、自分がオタクと名のれず、自虐としてやカテゴライズ上やむなくオタクを名乗っているオタクのことを指す。(③の用法)平たくいえばTwitterでキモ=オタク、や異常独身男性、陰キャ等々自称し自虐している人々のことだと思ってもらえれば良い。

 

 

皆さんは「オタク」と聞いた時どのような人々を思い浮かべるだろうか。今現在「オタク」という語の用法は主として3つあると考えている。

 

①「オタク」と自称する用法  (例)「俺(私)、オタクなんですよね〜w」「オタク趣味が好きです!!」

②「オタク」と他称する用法  (例)「あいつめっちゃオタク

じゃん、」「オタクだな〜」

③「オタク」と自虐、便宜上使用する用法  (例)「キモ=オタクなので買った」「オタクなので風呂入れなかった。」

 

①と③の違いがわからない方もいると思う、正直提示した僕もあまり厳密に提示したわけではない上に例も適当でないかもしれないためよくわかっていない。ただ①は自分が「オタク」であり、それを良いもの、誇らしいものとして提示したり、プラスのアイデンティティとして表現されるケースである。

対する③は、Twitter上でよく見られるような表現であり、カテゴライズ上アニメファンと自称するのも性に合わないし、とりあえず一番近い「オタク」と名乗っておくか、というようなオタクに対してマイナスであったり、自身をオタクと見做していないが便宜上オタクとしか名乗れないためオタクと名乗り、表現している、というケースである。

僕は③のケースでの用法が多く、「オタク」という言葉を①のように自称する行為に対して抵抗感がある。

 

 

なぜ僕を含めた一部の人々は「オタク」という語に対しネガティブなイメージを持ちながら使用したり、ポジティブな文脈で自称できないのだろうか。まず一つ目の推測としてそこには何らかの経験があると考えられる。

自分語りで恐縮だが、僕の経験から見てみたいと思う。

時は中学2年生(2015年)。当時は厨二病真っ只中、当時仲の良かった友人から勧められたアニメを家で録画し見ることにした。それが「スマイルプリキュア!」である。これが初めて見たオタク的なアニメであり、のちに「ラブライブ!」(再放送)から深夜アニメを見始めるわけである。当時プリキュアを見るのはあまり恥ずかしくなかったが、ラブライブの1話を見る時に、死ぬほど恥ずかしかったのを覚えている。正直今の自分からすればリビングでラブライブを見るよりもプリキュアを見た方がどう考えても明らかにやばいし恥ずかしいことだと思うが当時の僕はそんなことは全く考えず、本気でラブライブ!をはじめとする深夜アニメを見たり好きになったりすることを「恥ずかしいこと」だと思っていたのである。

当時の中学校やクラス自体にオタクを忌避する雰囲気があったかは定かではないが(たぶんなかった)自分の中でそういった「オタクっぽいもの」への憧れと反発が同時にあったこと、当時好きだった子にオタクっぽい〜みたいなことを言われてちょっと嫌だったことは覚えている。

ちなみに両親はラブライブ!はおろかリビングでニチアサをリアタイしてもアイカツを見ながら泣いても何もいわない親である。親からしてみれば息子がニチアサなり女児アニメを見ているというのは頭を抱える事案であろうに、何もいわず見守ってくれた両親には感謝のしようもない。たいへん有難いことである。以上余談。

まあその後順調にアニメを摂取し続け成長していくわけだが、その根底には「オタクは恥ずかしいもの」というような価値観があったように思う。

無論このような単に「恥ずかしいもの」であるというような価値観の内面化以外にも、オタクであることをからかわれた、いじめられた、何らかの経験をした等の経験が尾を引いていることは十分に考えられる。

反対に「オタク」とポジティブに名乗る人々は恐らくこのような経験をしていない、もしくは乗り越えたことにあるのではないだろうか。このような経験や体験がある人間が少数であり、ほとんどが体験してないからこそなんらかのきっかけでアニメ作品やアイドルを好きになり、ポジティブな意図や用法で自らのキャラや属性を、「オタク」と称しアイデンティティとする用法が多数派を占め、オタクや推し活などという言葉が人口に膾炙し騒がれる時代になったのであろう。反対に、私は「オタク」なんだ!とアイデンティティとして確立できなかった人が、自意識等を拗らせたり、トラウマで、「オタク」と名乗れないオタクたちは自嘲や自虐として憧れの「オタク」を名乗り、はたまた自分を無理くりカテゴライズするためにやむなく自己紹介で「オタク」と僭称するのではないだろうか。

 

二つ目の推測として、自身がオタクと呼べるレベルに達していない、と常に考えていることがあるように思う。「オタクと呼べるレベル」というと少し面白いが、要するに知識や鑑賞量が少ないのに、オタクと自称出来ない、という話である、この比べる他者は身近な友人でも、インターネット上の見知らぬ誰かでもいい。オタクになる、ということに価値を見出しているが、他者や空想の他者との比較を意識か無意識のなかで行い、自分はまだまだだ、だからオタクとは名乗れない、というような思考回路があるのかもしれない。

実際に、僕がラブライブを見る原因となった友人との比較、更にはインターネットの見知らぬ、アニメをめちゃくちゃ見ている人との比較を通し、上には上がいる、というような他者との比較をしてきた。

一方で「オタク」と名乗れるオタクには、他者との優劣というような思考はないのではないか、と考えられる。そこにはオタクになりたいというような思いはなく、「オタク」であるというアイデンティティが確立されており、推しへの愛や純粋に「オタク」であること、「オタク」として生きることがあり、

トラウマや何らかの経験があるという劣等感や、他のオタクという存在。更には自分というアイデンティティの確立がなされず、自意識をこじらせ、「オタクと呼べるレべル」のような意味のないものに固執し求め続けるのではないかと考えられる。

 

以上、自身の経験等から「オタク」と名乗れないオタクに対する考察を進めてきた。

最後に、「オタク」と名乗れる人々に対して、「オタク」と名乗れない人々はどう思っているのだろうか、

そこには屈託なく「オタク」を名乗れる羨望と「オタク」を自称するな、という怒りがないまぜになっているのではないだろうか、少なくとも僕はそうだ。

改めて、「オタク」とは、そして「おたく」とは、何なのだろうか

そして、オタクが「オタク」と名乗れる日は来るのだろうか